その世界はまだ、ほとんど生まれて間もないままの姿で、本当の意味での時間の流れというものが存在していませんでした。人々はどこに未来があるのかを見出す術を知らず、悲しみに暮れ、苦しみに苛まれ、永遠に終わることが無いものなんだと諦めていました。

 

そんな中でも、わずかではありましたが、前へと進もうとする人達が居ました。どこでも無い、自分たちの見据えた先にこそ未来があることに気が付いた人達が居ました。

 

彼らの行く道はとても苦しいものでした。それこそ、それまでの苦しみなど、“過去”のものになってしまう程に。それでも彼らは進みました。ただひたすらに、“未来”を目指して。

 

そんな彼らを見ることで、人々もまた、自分たちにも“未来”があることに気付き始めました。ある人は先人となった“彼ら”を追い越さん勢いで後を追い、ある人は全く異なる方向を見ることである意味で“彼ら”と同じ道を歩み、またある人は“彼ら”のたどった道をより多くの人たちが進みやすいように整えていきました。人々は皆、一様に“未来”へと進み始め、“今”が生まれ、“過去”の悲しみから遠ざかっていきました。

 

少しずつ、ほんの少しずつでも誰もが前へと進んでいきましたが、その中でただ一人だけ、立ち止まったままで自分よりも前へ進んでいく人たちをただただ見ているだけの人がいました。それに気付いた人たちは問いました。どうしてそんなところに居るんだ?あなたにはまだ未来が見えていないのか?と。

 

するとその人はこう答えました。「私は自らの意志でここに居る。皆、“未来”を目指しているが、辿り着いた未来はきっと“今”に変わってしまう。そうなれば当然ここは“今”から“過去”に変わるだろう。だが、その“過去”に何も存在してなければどうなる?きっと、“過去”そのものが消えてしまう。“過去”は無く、目指した“未来”は途端に“今”に変わってしまう。どれだけ前に進もうともずっと“今”のままだ。折角“未来”が出来たのに、それじゃああの頃に逆戻りだ。」

 

「今はまだこのことに気付いている人はいないだろう。皆前を向くことに夢中になっている。でも、いつかきっと気付いてしまう、自分がいる場所はずっと“今”なんだと。もしかしたら自分のやってきたことに疑問を持つ人も現れるかもしれない、あれ程前を見続けて進んできたのにずっと今に居続けている、これまでやってきたことは全部無駄だったんじゃないか?って。」

 

「そんな人達のために私はここに居ようと思う。“過去”から“今”に居る人たちに、『あなたたちはここからこんなにも進んでいったんだ。あなたたちのやったことは、何一つ無駄なんかじゃなかったんだ。』って教えてあげようと思う。だから、私の事は気にせず前へ進んでほしい。そして時には振り向いて、私を見つけてほしい。そのために私はここに居るんだ。」

 

人々はその人の言っている意味がよくわかりませんでした。ですが、どうせその内に好きなように進みだすだろうと考え、特に気にせずに各々の道へと歩みを始めました。

 

時は経ち、ほぼ全ての人々は“未来”へとたどり着くことが出来ました。それだけでなく、そこから更なる“未来”へと進んでいる人さえいました。当然残りの人々も、それを見てまた“未来”を目指そうとしましたが、そこで一つの疑問を持つ人たちが居ました。

 

私たちは“未来”に辿り着いたはずなのに、目の前には“未来”がある。ここが“未来”じゃなかったのか?遥か先にあるあの場所が“未来”だと言うのなら、じゃあ、ここは一体どこだ?

 

人々ははっとしました。そして後ろを振り返りました。すると遠く、遠くに、本当にあの人はいました。あの時と全く変わらずに、その場所から動くことなくこちらを見ているようにも見えましたが、あまりにも遠くなりすぎたその場所からは、その目がどこを向いているかまではわかりませんでした。

 

その人の姿を見たとたん、人々は心底安心しました。が、それと同時に堪らなく恐ろしくなりました。遠い遠い“過去”に居るその人が恐ろしくなりました。

 

人々は“過去”に居るその人に向かって叫びました。我々はちゃんと“未来”に、“今”に辿り着いた。もう、いいだろう。そこに居るのは怖くないのか?“過去”に居るとしたって、なにもそんなに遠くに居る事は無いじゃないか。少しくらいこっちに来たっていいんじゃないのか?と。

 

程なくして、その人からの返事が聞こえてきました。「ここはもう“今”でも、“過去”でもない。この場所は“始まり”なんだ。この場所から起きたすべての物事があったからこそ、あなたたちはそうしてそこに居る。このたった一つの“始まり”を失ってしまったら、あなたたちの“今”は無くなってしまう。ならば私はここで“始まり”を守る。この場所であなたたちの行く果てを見届けよう。怖くなどない。あなたたちが進み続ける姿を見続けることは、何物にも代え難い喜びだ。だから進んでほしい。人々がそうやって、まだ後ろを気にしていられるうちに。でないと、あなたたち自身が恐れている“過去”に取り残されてしまうから。」

 

人々はやはり、その人の言っている意味がよくわかりませんでした。ですが、例え連れ出そうと思ったとしても、人々には“過去”へ行く術がわかりません。それに、意味はわからずとも、その人が決して動くことは無いという決意は伝わりましたし、なによりそんなことをすれば自分たちが“過去”に残されてしまうことはだけは理解できてしまったので、人々は再びその人を残して進むほかありませんでした。

 

それから更なる時間が経ちました。人々は幾度となく果てと思われた場所を越え、今もなお、何度も、何度も終わりのない“未来”を“今”に変え、積み重ねた“過去”は“歴史”となりました。

 

“歴史”の中には、それまであった“過去”が全て記されていました。当然、“始まり”があったことも。ですがもう、誰一人として“始まり”を知ってこそいれど、覚えている人はいませんでした。振り返り、どんなに目を凝らしても、“始まり”がどこにあるのか見つけられる人は、一人もいませんでした。

 

あの人がどこに居て、どうしているのか、もう誰も知りません。あの人の言っていたことは正しかったのかどうかは、きっと誰にも決められません。あの人のあの眼は何を映していたのか、誰にも、わかりません。